「私は私らしく生きる」という近代的自我の神話が崩壊して、およそ百年
知って使っているのか?知らないで使っているのか?
「私は私」
「私は私のままでいい」
「私は私でしかあり得ない」
「ありのままの私を受け入れよう」
「私らしいって、こういうこと……」
恥はかきたくない。
「私は私のままでいい」「私は私」、それじゃダメでしょ!
「私は私」という言葉が、疑いもなく使われている。だが、それではダメ。「私は私」じゃダメなのだ。
しかし、多くの人は、途中で考えるのを止めてしまう。だから、いつまでたっても「私は私でいいんだ」と思考停止させて、偽物の安らぎに逃げていく。だが、「私は私」では立ち行かないのだ。
たとえば、「私は取手市民」という人と「私は都民」という人は違う。私が取手市民で、都民であることは出来ない。私は何かの代名詞である。だから、代名される「私」が、代名される「私」であるはずがない。「私は私」とは、「AはA」と言っているに過ぎない。
「私は私」のトレーニング
私を見つけようとしても、簡単には見つからない。見つからない理由も簡単。見つからない人には、見つからない。すると、自分探しで疲れてしまう。
そんな人向けの代表的なトレーニングに、「脱同一化・同一化」というワークがある。簡単に示すと、こんなトランスワークだ。
「私は、何ものでもない
私には感情がある、しかし、常に変わる感情は、私そのものではない……
私には考えがある、しかし、進化する考えは、私そのものではない……
私には知性がある、しかし、置き換える知性は、私そのものではない……」
要するに、さまざまな心理機能と私を脱同一化し、最後に、私そのものを感じるワークである。
私が代名している対象を感じるワークだ。それは一般的に、静けさ、光、一体感として「私」というものを体験することが多い。
すると、私とは静けさなのか。光なのか。一体感なのか。だが、私が代名しているものを言葉で表現した瞬間、それはすでにそれではなくなる。それこそが、私が代名しているものの正体なのだ。
たいていの場合、数日は「私の正体」とともに居られる。ところが、数日も日常生活を送ると、その感覚を忘れてしまう。
そして、それを理解したうえで「私は私」として自律的に強く生きる者もいれば、「私は私なんだから、それでいい」と、本当のことがわからないまま、自分を強制的に奮い立たせる、そんな他律的な生き方に向かう者もいる。私が代名するものを知ったうえで「私は私」と言う者と、それを知らずに言う者とでは、まったく違う姿で生きることになるだろう。
「人は人 我は我なり、とにかくに、吾行く道を、吾は行くなり」 西田幾多郎(にしだ きたろう)
強さが違う。西田幾多郎先生の言葉は、我(私)というものを捉えていた人の言葉に違いない。
すでに在るものは、見つからない
私の名前は、椎名規夫という。
名前は椎名規夫だが、私が椎名規夫なのではない。名前を付けられる前、私は椎名規夫ではなかった。では、名前が付けられる前の私は、何だったのだろう。名無しの権兵衛?そうかもしれない。皆さんはどうだろう。名前を付けられる前、何だったのだろう。
名前が付けられる前の赤ちゃんなら知っているかな?
赤ちゃんは、何を代名されているのだろう。
私とは、いったい何なのだろう。