【解説】なぜ「悩む」と職場のコミュニケーションは解消しないのか?『バカの壁』に学ぶ人間関係の本質

一つ目の真実
職場のコミュニケーションの悩みや問題は尽きません。
二つ目の真実
「悩む」ことでは、職場のコミュニケーションは解消されません。
三つ目の真実
「考える」ことで、職場のコミュニケーションで「悩む」ことがなくなります。
「部下に伝わらない……」
「人間関係がしんどい……」
「職場の雰囲気が悪い……」
「上司と話がかみ合わない……」
「心理的安全性って何?と悩む……」
「研修しても現場が変わらない……」
多くの人が、毎日のようにこのテーマに頭を悩ませています。
けれど、いくら“改善策”を学んでも、職場の人間関係はすぐには変わりません。
なぜなら、人間関係は“解消するもの”ではなく、“学ぶもの”だからです。
このブログでは、あの大ベストセラー養老孟司氏の『バカの壁』をヒントに、職場コミュニケーションの「本質」を紐解きます。
悩みを「問題」ではなく「学習の機会」として捉え直すとき、ご自身の働き方や人との関わり方が静かに変わり始めるでしょう。
「空気を読みすぎてしんどい……」
「職場の人間関係に疲れている……」
「嫌われないようにして自分を押し殺している……」
こんな気持ちとはサヨナラしましょう。
養老孟司先生の『バカの壁』

大ベストセラー、養老孟司氏の言葉で知られる「バカの壁」とは、人が自分の理解できる範囲でしか世界を見ないという生き方を指しています。
それは、話が通じないのではなく、起きている出来事を“自分の脳が理解できる領域にしか変換していない”という現実です。
職場で「話が通じない」「価値観が合わない」と感じるとき、実は自分自身がその「壁の内側」にいるということであり、他者を“わからない人”とラベルづけた瞬間、理解の回路は閉ざされてしまうのです。
批判的に言えば、「バカの壁」という言葉自体が、「わかりあえない前提」を固定化する危険性があります。
しかし養老氏の本意はそこではありません。
大切なのは、壁の向こうを知ることではなく、「自分にも壁がある」と気づくことであり、職場のコミュニケーションは、その気づきの連続がスタートです。
たとえば、ゴッホの絵についてです。
Aさんは、ゴッホの絵にまったく興味がないとします。
Bさんは、ゴッホの絵の中で「ひまわり」が最高傑作だとしましょう。
Cさんは、ゴッホの絵の中で「自画像」が最高傑作だと考えています。
Aさん、Bさん、Cさんは、それぞれゴッホの絵に対する認識が違います。
これが「壁」です。
私たちは、生まれ育った環境や遺伝子の影響で、一人ひとり、オリジナルの壁を持っているのです。
そして、問題は、養老氏が伝えるように、人はその壁を外さないで、出来事を捉えてしまうということです。
職場の人間関係は、問題ではなく学習の機会

多くの人が、職場での人間関係を「問題」として扱ってしまう「壁」を有してしまっています。
これが、人間関係の悩みの背景です。
問題とは答えがあるものですが、人間関係は答えのある問題ではなく、答えのないものを追い求めて悩めば、苦悩し、心が壊れそうになるのは当然のことです。
私たちは“正解”を求めてしまう習慣があり、義務教育は、その習慣を作った原因かもしれません。
しかし、人間関係に正解はなく、それは“勉強”ではなく“学習”の領域だからです。
勉強は、答えが決まっていて暗記して覚えれば、理解したことになる。
しかし、学習は違います。
経験の中から自分で気づき、試し、修正していく過程です。
たとえば、同じ材料で料理をしても、毎回、同じ味にはなりません。
また不思議なことに、作る人によって、同じ材料でもおふくろの味と言われるものが異なります。
人と関わることは、まさにこの「学習」です。
思い通りにいかない相手ほど、その相手と自分の偏りを教えてくれます。
だから、職場の人間関係は“うまくいかないほど価値がある”といえ、失敗や摩擦こそが、私たちの理解を深める教科書なのです。
ただし、パワハラ、セクハラを我慢する必要はなく、それは毅然とした対応で対処をしましょう。
そして、学ぶ対象は他人との相違だけではなく、他人を通して見えてくる、自分自身の学びになりますから、成長にも役立つはずです。
虚構性(きょこうせい)

※虚構性とは、一般的に「事実ではないことを、あたかも事実であるかのように作り上げること、またはその性質」のこと
私たちが「人間関係で悩む」とき、多くの場合、それは実在する問題ではなく、勝手に“頭の中で描いた物語”です。
「伝わらない」
「誤解された」
「分かり合えない」
「上司に恵まれない」
「嫌われたかもしれない」
そのほとんどが、確認されないまま自分の中で膨らんでいく虚構なのです。
妄想に近いと言えます。
人間は、本能的に虚構をつくる生き物です。それが想像力の源であり、同時に苦しみの源にもなってしまいます。そうです。他者と関わるとは、虚構と現実をすり合わせる作業にほかならない。
『バカの壁』を越えるとは、自分が勝手に作り上げた虚構、妄想、信じている“物語”を疑うこと。
本質を考えられる人「本当にそうだろうか?」と自問できる人だけが、壁の外に出て垣間見ることができるのです。
職場の人間関係とは、他者を通して虚構を壊し、現実に立ち返る訓練の場でもある。
自分の壁の中で虚構を描き、妄想し、真実を知ろうとしないまま悩む。
悩む必要のないものを悩む。
解決できない虚構・妄想を悩み、苦悩する。ないものを悩んで苦しみ悶える。
「バカの壁」と呼ばれても仕方がない。
社会通念と常識

社会通念で生きる人はつらくなる
「論理的に話せば伝わる……」
「人間関係を改善しなければならない……」
「上司とは……」
「部下とは……」
「〇〇しなければならない……」
これらはすべて“社会通念”です。
社会通念とは、多くの人が“正しいと思っていること”ですが、それが必ずしもすべての人にとっての“真実”ではありません。
社会通念という偽りを求めるので、努力を重ねたとしても報われないことがあり、自分を責めたり、無価値観に苛まれるようになります。
常識で生きる人は、つらい努力を楽しめる
一方、“常識”とは、立場や時代を超えてすべての人にとって正しいこと。
他者への敬意、誠実さ、感謝、無私の精神。
それらはいつの時代も変わりません。
多くの人は、社会通念に縛られながら生きています。
すべての人にとって正しくない社会通念を軸にして生きるから、「こうすべき」という正義がぶつかり、摩擦が生まれます。
そこで、自分の中にすべての人にとって正しい“常識”を育み、そうすることで、他人の社会通念に振り回されることがなく、自己肯定感に満たされ生きられるのです。
みんなにとって正しいこと。
善いことがわかれば、自信を持って生きられるはずです。
ただし、常識は、誰かに教わるものではなく、自分で考え、自分で見つけるものです。
そして、それを持てば、人間関係に悩むことがなくなるのです。
人間関係・対人関係を解消しようとするワナ

私たちはしばしば、「人間関係を解消する方法」を探すでしょう。
- 本を読み
- 動画を見て
- 誰かに相談し
“うまくやる技術”を学ぼうとします。
しかし、答えのない人間関係を解消しようとする試みは、しばしば逆効果になり、そうしたノウハウは「人間関係を改善したい」という“社会通念”の延長線上にあります。
「こうすればうまくいく」「これが正解だ」と教えられたり、言われることは、答えのない問いへの答えであり、全くの的外れのことなのです。
このように、社会通念で生きている人に相談しても、不安は共鳴し合い、負のスパイラルに陥る危険があります。
本当に必要なのは、“通念の外”、「壁」の外から自分を見つめることではないでしょうか。
人間関係の悩みは、「解消」ではなく「理解」によってのみ学びとなり、人生を深く豊かにしますが、人間関係の悩みは解消するものではなく、活用するものです。
職場のコミュニケーションは、成長の機会です。

職場のコミュニケーションとは、自分と異なる価値観との出会いでもあります。
壁の外は、時に不快で、時に衝突を生むでしょう。
しかし、「壁」の中にいたのでは、悩むだけで、人生を深める遠回りにしかならないでしょう。
その「違い」を知ることでしか、人は成長できない。
他者の存在を通じて、自分の輪郭が明確になる。人との比較ではなく、相互の違いを通して、自分が見えてくる。
社会通念に流されず、自分で常識を考え抜くことは、孤独で、努力を要する道ですが、その努力の中に人生の成熟というものがある。
職場の人間関係とは、“生き方の訓練道場”かもしれません。
人と向き合うことは、自分と向き合うことであり、その苦しみを喜びとして引き受けることができたなら、他者とのコミュニケーションは、自分とのコミュニケーションを経て成長そのものになります。