【解説】無駄な「自己肯定感」を捨ててください。

「自己肯定感」とは、言葉としてあるだけの概念。そんな曖昧なもので悩む必要はまったくありません。
「頑張り疲れ」の根本原因は、その言葉自体にあることが多い。
「自己肯定感を上げたい……」
「ポジティブにならなきゃ……」
「自分を好きになりたい……」
努力しているのに、なぜか満たされない。
心の奥底から「自分はダメだ」という声が聞こえてくる。
そして、また頑張り、そして、また疲れる。その繰り返し。
強い責任感や貢献意欲を持ちながらも、終わりなき努力のループに囚われているとしたら、いったん立ち止まってみませんか。
そこには、言葉の罠が潜んでいるからです。
- 「頑張っているのに満足できない……」と責任感がある人
- 「自分を好きになろう……」「ポジティブになろう……」と努力を続けてきた人
- 「自分はダメだ……」「もっと出来るはずだった……」と自分に叱咤激励を続けている人
- 「まわりからの視点が気になる……」「自信が持てない……」と存在の土台を確かにしたい人
- 「まわりを育てたくても上手くいかない……」と育成に真剣に向き合っている人
- 「自分の成長は遅いなぁ……」と自らに厳しく、貢献意欲の高い人
- 「ネガティブで、ポジティブになれない……」と自己理解が深い人
こうしたテーマで、「自己肯定感が低いからだ」と結論づける必要はまったくありません。
なぜなら、「自己肯定感」とは、言葉として存在しているだけのもの、ただの概念(ラベル)にすぎないからである。
実体も定義も曖昧な「自己肯定感」という、形のない概念のために、これ以上、大切な時間とエネルギーを費やす必要はない。
これは、「自己肯定感」という名の重荷から解放され、概念に振り回されない自由な自己を取り戻すためのもの。思い込みを静かに手放していくための、一つの視点として読んでいただきたい。
※「自己肯定感」とよく似た「自己重要感」という言葉も、概念だけであり、実体はない。
そもそも「自己肯定感」とは何なのか?

「自己肯定感を高めよう」
「自己肯定感が低いからダメなんだ」
この種の言葉は、日常のあらゆる場面で耳に入ってくる。
しかし、心理学はこれをどのように扱っているのか。
結論からいうと、自己肯定感には「統一された科学的定義」が存在しない。
たとえば、心理の国家資格である公認心理師試験では、これまで一度も正式に「自己肯定感」という用語が出題されたことがない。
国家試験に出題されるのは、学術的に位置づけが確立し、専門家の間で共通理解がある概念である。
つまり、自己肯定感という言葉は、学術的に扱うには曖昧すぎる。
それにもかかわらず、世の中の多くの人は「自己肯定感」という概念を強く信じ込んでいる。
- 自己肯定感が高いことは良い
- 自己肯定感が低いことは悪い
- 自己肯定感を上げなければならない
このように、正体のはっきりしない自己肯定感に対して、誰かが価値づけを行い、それがそのまま広く浸透している。
本来存在しないはずの「ない」ものを「ある」ものとして扱い、「ない」ものの「高さ・低さ」で自分を判断し始める。
問題のないところに「問題」をつくり出し、その問題に必死で答えを出そうとしてしまう。
その結果どうなるか。
実体のない基準で傷つき、
存在しない尺度で、自分を測り続けてしまう。
「自己肯定感が低い」という悩みは、
概念を信じ込むことによって自ら作り出された幻想である。
「自己肯定感」という言葉は、心の中で起きている複数の複雑な現象を、一括りにするために誰かが便宜的につくった名称にすぎない。
都合よく「自己肯定感」を言い訳にしてしまう
便利な名称は、ときに「全てを片付ける言い訳」として機能し始める。
いつの間にか、気づかないうちに、次のような考えに至る。
- 人前で緊張する → 「自己肯定感が低いせいだ」
- 仕事でミスを恐れる → 「自己肯定感が低いせいだ」
- 他人の評価を気にする → 「自己肯定感が低いせいだ」
不安、恐れ、失敗、対人関係の悩みといった、具体的で異なる現象が、すべて「自己肯定感」という一つの曖昧な名称のせいにされていく。
責任の対象となっている「自己肯定感」とは、そもそも誰かが勝手に作った言葉に過ぎません。そこに現実的な実体は皆無です。
しかし、この「自己肯定感」という名称は、あらゆる問題の“総合窓口”のように利用されてしまう。この実体のない虚構そのものが、悩みを複雑化させているのです。
ウイルスは実体、自己肯定感は虚像
たとえば、「咳」や「熱」といった具体的な症状で苦しんでいるとき、「風邪」や「コロナ」という病名そのものに悩んでいるのと同じ状態です。
「風邪」「インフルエンザ」「コロナ」といった病気は、ウイルスという「実体のある未知のもの」が原因で感染します。
一方で、自己肯定感という概念に実体はありません。では、「自己肯定感が低い」と悩むときの、その「原因」は何でしょう?
自己肯定感が言葉としてあるだけですから、その悩みの根本原因は、心に深く根付いた「思い込み」という名の、それこそ未知で実体のないウイルスのようなものです。
本当にするべきは、「自己肯定感を上げること」ではありません。
価値あること。本当にするべきことです。それは、役に立たない概念という「思い込み」を手放すこと。それこそが、私たちを苦しみと無駄な時間から解放する唯一の鍵です。
実体の「ない」ものに悩み、無駄に苦しみ、時間を浪費しているのは自己肯定感だけではありません。
なぜ「ない」概念に苦しめられるのか?

自己肯定感が曖昧な概念であるにも関わらず、多くの人が実体の「ない」概念に苦しめられています。その背景には、主に三つの認知の罠、すなわち「思い込み」「単純化」「矛盾」があります。
「ある」と信じている疑わない素直さ
「自己肯定感は存在するもの」 「高くなければいけないもの」
この前提を手放さない限り、私たちは終わらない欠乏のループの中で生きることになります。
本来ないものを「ある」と思い込み、しかもそれを上げ続けろと言われる。その矛盾が、心を疲弊させ、摩耗させてしまいます。
“ないもの探し”が自己否定を続けてしまうのです。
もし「自己肯定感」が実在するとしたら――心の単純化
世の中の社会通念を見ると、自己肯定感は、まるで何かひとつの安定した性質のように扱われています。
高い/低い
良い/悪い
しかし、心はそんなに単純ではありません。
たとえば、ある場面では自信があり、別の場面では不安になる。個人の心は本来、ゆらぎ続ける存在です。
その揺れに慣れなかったり、否定してしまうと、「理想の自分」と「現実の自分」の差だけが際立ち、苦しみが深まります。
「ありのままの自分を認め受け入れること」という矛盾
「自己肯定感」の代表的な解説として、よく以下のような説明がされます。
ありのままの自分を認め、尊重する気持ち
しかし、ここに大きな落とし穴があります。
「ありのままの自分」が何なのか、誰も明確に説明できていません。
もし、「ありのままの自分」を個人の「揺れ動く心」だと勘違いしていたら、大変です。
個人の心は揺れ動くものです。その揺れ動く心と、個人の本質は違うものです。この区別を先にできなければ、揺れ動く心を「ありのままの自分」と誤解してしまい、受け入れることなど、到底できないのではないでしょうか。
もし、ありのままの自分を認め受け入れることが自己肯定感を高めることだとするなら、「ありのままの自分(自己の本質)」と、それを感じる「揺れ動くことが当たり前の心(感情やエゴ)」と、揺れ動く心を統制する「意志」の区別ができなければ、それは不可能ではないでしょうか。
たとえば、両手で持てる水槽に水を入れて、ボールを浮かせます。
常に揺れ動く波は「心の状態」で、それに揺られるボールが小文字の自分(自我/エゴ)。そして、その水槽を手に持ち、揺れ動くボールを見つめているのが大文字の自分(意志/セルフ)だとします。
揺られているボールの自分が本当の自分でしょうか?水槽を手に持ち、それを眺めている方が本当の自分でしょうか?この区別ができなければ、ありのままの自分を認め受け入れることなどできないでしょう。

分析心理学の創始者カール・グスタフ・ユングは、この波に揺られている方を小文字のself(自我/エゴ)。それを統合し、眺めている方を大文字のSelf(自己/セルフ)と呼びました。
本当に受け入れ尊重すべきは、揺れ動く心ではなく、その揺れを統合し見つめる大文字のSelfなのです。
ほんとうのこと

Self(自己)の真の性質。受容ではなく畏敬
そして、よくよく、深く考えてください。
揺れ動く小文字のself(自我/エゴ)を、その都度「これは波である」と認識し、感情の波に飲まれないように受容することは重要です。
しかし、その揺れを統合し、人生の全体性を導く大文字のSelf(自己)は、単に「ありのままに受け入れる」という自己肯定感的な言葉で片付けられる存在でしょうか?
ユング心理学において、Selfは個性化の根源であり、意識(エゴ)を超越した心の全体性の中心です。それは、ときに理解を超えた力や、古い自分(エゴ)の崩壊をもたらすため、私たちはその前に立ちすくみ、以下の感情を抱きます。
畏敬(いけい)。自己の本質、魂の深淵に触れたときの深い尊敬と、その神聖さに対する敬意。
畏怖(いふ)。エゴの論理では制御できない、広大で未知なる無意識の力に対する根源的な恐れ。
Selfは、私たちがただ「肯定」や「受容」の言葉で閉じ込めていいほど小さな存在ではないのです。
本当に必要なのは、エゴの自己否定を助長する「自己肯定感」という曖昧なラベルに振り回されるのをやめ、Selfの力に対して寄り添い、その導きに身を委ねるという姿勢ではないでしょうか。
善く生きるとは、「自己肯定感を上げなければならない」という幻想ではなく、畏怖と畏敬の念をもってSelfと向き合う営みではないか。